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16  誇りを育てる

 自己評価と他人からの評価との間で後者のほうが低すぎるというギャップがある場合を念頭に,プラス思考の技術を検討し続けている。
 前回,プライドという言葉は「支える」という文脈で用いるべきだという提案をした。普段「自分の意識をもって自分を支える」という考えを持つことは少ないかもしれないが,これはとても大切なことなのだ。
人生というのは山あり谷ありで,いい時期もあれば悪い時期もある。幸運や才能や努力によって他の人に比べて高いレベルで人生の昇降曲線を描くことのできる人もいるのだろうが,それにしたって人生を一度たりともがっかりすることなく過ごす人なんていない。どんな人だって失意に沈む夜がいくつもあるはずである。
苦しいときや悲しいとき,他の人に慰められて元気が出ることもある。そうやって励ましてくれる人が周囲にいるというのはとても幸福なことで,人は逆境で自分の恵まれた環境を知ることがある。そうした励ましを機縁に人生のカウンターアタックを展開するのも悪くない。
だが,廻りの心温かい人たちの力をあてにすることなく,そうした人たちがいなくても自分の心を強く保つことができるようにしておくという準備も,日ごろから怠ってはいけないのだろうと思う。これは,言ってみれば「心の危機管理」なのだ。
さて,前回は「プライド」という言葉で統一して表現したが,日本語では「誇り」,「自尊心」,「自負心」,「矜持」。
どの言葉にしても,良いニュアンスで用いられる場合と悪いニュアンスで用いられる場合とがある。後者は自分だけが尊いとか正しいというような趣旨で,「うぬぼれ」というような意味で使われる。
たとえば,「自尊」という言葉には,「自重して自ら自分の品位を保つこと」という意味の他に,「自ら尊大にかまえること」といった意味もある。
 自己の尊厳を保とうとする心理は,他者を見下そうとする心理と紙一重の所にあるということでもある。そして,ここが注意を要する点なのだが,どちらの領域からでも「プライド」は発生しうるのである。
われわれのテーマである「プライドで自分を支える」ということだけで考えてみても,一見,どちらの領域のプライドでも同じくらい役に立つように思えるが,はたしてそうだろうか。
自己評価と他人からの評価との関係をどう考えるかということは,自分と社会の関わり方に連なる問題であり,自分を社会の中にどう位置づけていくかという問題に関係する。この「位置づけ」ということが問題で,うっかりすると,安易に「位置づけイコール序列」と考えてしまいがちである。だが,人が社会と関わるときのテーマとして最も大切なのは,その果たす役割(role)や事に対応する姿勢(stance)であって,序列(rank)が重要なのではない。人はランク付けを受けるために社会にあるわけではない。社会に役立ち,そしてその役立ちの度合いについて社会から評価されて地位(position)を与えられ,自分の居場所をそこに見出すことが,幸福な人生の基盤になるのである(いうまでもないことだろうが,ここでいう社会への役立ちとかそれへの関わりとかは,職業的なことだけに限定して言っているのではない。家庭やコミュニティーで,スタンスを明らかにしつつそれぞれの役割を果たし貢献していくこともまた,社会に居場所を見つけるということである)。
うぬぼれや尊大は,自己の序列にばかり気を取られ,自分が社会にどういう役立ちをしていきたいのか,どう関わり,何をもたらしていくことができるのかといったことを忘れた人生態度に由来する。そのような態度に淵源をもつプライドも,あるいは一時であればその人の心を支えることもできるのかもしれない。負けず嫌い魂は,再挑戦に向かう意欲を掻き立たせるものだから。しかし,この種類のプライドは基本的に他者に勝利することのみを基盤とするので,敗北が決定的になったときに,結局はそのプライド自体が瓦解する。このため,そうしたプライドは,永くその人生を支え続けるだけの力をもつことはない。言ってみれば,それは順境用の思い上がりアイテムに過ぎないのだ。またそれゆえに,多分,そうした種類のプライドは,やたらと傷つきたがる性向を持つのだろうと思う。
 人は,心の中に,順境でも逆境でも変わることなく保たれるプライドを育てるべきなのだ。社会的ステータスや収入や学歴などといった「序列」に関わる思いが,そうした強いプライドに育つことは難しい。
プライドを植物にたとえるなら,その種苗に二種類がある。「序列種」と「役立ち種」と。前者は「うぬぼれ」というあだ花を咲かせる。自分を支えるためのプライドということで考えるなら,「尊厳」という果実を産む後者をこそ,心の畑に蒔き,丹精して育てるべきなのだ。